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長島一向一揆

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の前波吉継(桂田長俊)は一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し、信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。

7月、信長は3万人の大軍と、織田信雄、滝川一益、九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含んでおり戦に関して全くの素人という訳では無く抵抗は激しいものであった。しかし、8月に入ると兵糧不足に陥り、さらに織田軍の猛攻により大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られるなど、次第に戦況は織田軍有利に傾く。
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9月29日、兵糧に欠乏した長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去することを信長に申し出ると信長もこれを了承した。しかし、弟の信興や家臣を殺された信長は、一揆衆の退去する動きが遅いこともあり、船で移動する門徒に一斉射撃を浴びせることで攻略した。しかし、これに激怒した一揆側の一部が織田軍に襲いかかり、信長の庶兄・織田信広、信長の弟・織田秀成など多くの織田一族の将が討ち取られた。

さらに信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒に対しては、城の周囲から包囲して討ち取った。このとき、一揆衆は2万人が織田軍によって討ち取られたと言われている。この戦によって信長は長島門徒の反乱を治めることに成功した。

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2009年11月13日 14:18に投稿されたエントリーのページです。

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